372. 第4回/8回 神在月の迎えと送り ― 神々の国に流れる“変わらない時間”(ハーンが見た日本、わたしが生きる日本)

神在月の始まりに感じる空気

出雲では旧暦十月は神在月と呼ばれ、神々が全国から集まると伝えられています。
自分の暮らす土地でも、この時期になると神社の空気がどこか引き締まるように感じられます。
特別なことが起きるわけではありませんが、境内に立つと背筋が自然と伸びるような感覚があります。
それは季節の変わり目の空気とも重なっているのかもしれません。

迎えるという行為の意味

神在月には、神々を迎えるという行事が行われます。
迎えるという表現には、ただ待つのではなく、受け入れる心の準備をするという意味も含まれているように感じます。
掃除をしたり、灯りを整えたり、心を静めたりするその一つひとつが、日常と非日常の境目をやわらかくつないでいるようにも思えます。

送るという時間の静けさ

神在月の終わりには、神々を送る行事が行われます。
にぎわいのあとに訪れる静けさには、どこか名残惜しさのような感情も混ざります。
迎えたときの高揚とは違い、送る時間には落ち着いた余韻が残るようにも感じます。
日常へ戻っていくその感覚もまた、神在月の大切な一部なのかもしれません。

変わらない姿に宿るもの

神社は遷宮によって屋根や柱を新しくしながらも、何百年も変わらない姿を保っています。
紙や土、石や木といった自然の素材でつくられているにもかかわらず、その佇まいは時代を超えて続いています。
人の手で守られてきたその連続性の中に、目に見えないものの力を感じることがあります。
神という存在を、形ではなく、流れとして受けとめているようにも思えます。

ハーンが見た神々の国

ハーンは、出雲を神々の国として描写し、この土地に流れる時間の感覚に強い印象を受けたようです。
彼の文章からは、神々が遠い存在ではなく、暮らしのすぐそばにいる存在として感じ取られていた様子が伝わってきます。
神話の世界と現実の暮らしが、分かれすぎずに共にある国として、日本を見つめていたのだと思います。

送られた神々と、続く日常

神在月が終わると、日常がそのまま続いていきます。
何かが劇的に変わるわけではありませんが、確かに一つの節目は過ぎています。
迎えることと送ること、その両方があるからこそ、日常は静かに循環していくのかもしれません。
自分の暮らしの中にも、その循環は確かに息づいているように感じます。

ハーンのまなざしと、今の自分

ハーンが見た神々の国は、百年以上が過ぎた今も、大きくは変わっていないように思えます。
神社に立ち、風の音や木々の揺れを感じていると、ハーンが感じ取ったであろう空気と、今の自分の感じている空気が、どこかで重なっているようにも思えます。
変わらないことの中に、安心と畏れの両方が静かに共存しているのかもしれません。

次回予告

第5回「家の祀りと神棚 ― 日常に置かれた“もう一つの神社”」。
自分の家や職場にある神棚の風景と、ハーンが見た家庭の中の祈りを重ねて綴っていきます。

書籍名:Glimpses of Unfamiliar Japan(1894, Lafcadio Hearn)
引用章:Chapter V “From the Diary of an English Teacher”
引用見出し:The Land of the Gods

今日も佳き日に
コーチミツル
#ハーンシリーズ #神在月 #出雲 #神社 #遷宮 #迎え #送り #松江 #ラフカディオハーン

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