373.【第1部】切った花も生きている(仏壇の花と、見届けるという暮らし)

一度建て替えはしていますが、寛政のころから続く家に暮らしています。
お墓には月に一度ほど花を手向け、仏壇の花は週に一度、入れ替えています。

冬になると、小菊などは一週間経ってもまだ枯れきらず、少しだけ疲れたような姿で残ります。

その花を、そのまま捨てることがどうしてもできません。

仏壇から下げた花は、今度は自分が座るテーブルの上へ。
剪定した枝も、処分せず、玄関に花器を置いて活けています。

人の都合で切ってしまったいのちを、無駄にしては申し訳ない。
ただ、それだけの気持ちです。


これは自分だけの感覚なのだろうか

ふと、そんなことを考えました。

ただの自己満足なのか。
勝手な感傷なのか。
それとも、
もともと、そういう考え方は
どこかにあったのだろうか。

そこで、
AI秘書の「はるさん」に調べてもらいました。


調べてもらったところ、こうした考え方があるそうです

はるさんによると、
日本には昔から、
花や草木を「使い切るもの」ではなく、
最後まで関係を結ぶ存在として扱う
考え方があったとされています。

仏教には
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)」
という言葉があるそうです。

草や木、土や場所でさえ、
仏性を宿し、成仏の可能性がある
――そう考えられてきた、という説明でした。

花もまた、
単なる飾りではなく、
いのちある存在として
捉えられてきたようです。


華道の言葉にも、同じ感覚があるそうです

華道、とくに池坊の考え方の中には、
こんな言葉が伝えられているそうです。

切った花は死んだ花ではない
生き方を変えた花である

花は、
つぼみも、盛りも、
衰えていく姿も含めて
すべてが「いのちの表現」と
考えられているそうです。

少し傷んだ花を
別の場所に活け直すことは、
花の残りの時間に
寄り添う行為と捉えられているようでした。


「もったいない」という言葉についても

はるさんは、
「もったいない」という言葉にも
触れていました。

もったいないとは、
単に無駄にするな、という意味ではなく、

本来果たせる役目を
果たさせないことが惜しい

そんな感覚を含んだ言葉だと
説明されていました。

まだ枯れていない花を
途中で手放すことの方が、
かえって「もったいない」と
感じられてきたのかもしれません。


現代的に言えば、SDGsとも重なるそうです

結果として、
こうした行為はSDGsでいう

  • つくる責任 つかう責任
  • 陸の豊かさを守る

といった考え方にも
重なる部分があるそうです。

ただ、
それを意識して行ってきたわけではありません。

暮らしの中で、
自然とそうなっていただけです。


気持ちでやっていたことが、どこかとつながっていた

調べてもらって、
少し安心した、というのが正直なところです。

気持ちでやっていたことが、
どうやら日本の文化や思想と
どこかでつながっているらしい。

仏壇の花をどう扱うか。
剪定した枝をどうするか。

そんな小さな選択の中に、
生き方は、静かに表れているのかもしれません。

あなたは、身近ないのちをどこまで見届けていますか。

今日も佳き日に

コーチミツル

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