盆の支度と、受け継がれてきた時間
以前のブログでも何度か触れましたが、自分の家でもお盆になると仏壇にきゅうりの馬となすびの牛を供えます。
迎え火を焚き、送り火で見送るという一連の流れは、子どもの頃から自然に受け継がれてきた習慣です。
最近でもJAで花を買い、お墓に供えることがあります。
そうした一つひとつの行いは、特別な行事というより、年中行事として体に染みついているように感じます。

近くにいるように感じる瞬間
亡き人を思い出すとき、不思議と「近くにいらっしゃっているのではないか」と感じることがあります。
姿は見えなくても、気配のようなものを感じる瞬間があります。
それは感覚的なものかもしれませんが、自分にとってはとても自然な感覚です。
ハーンが見た日本の死生観
ハーンは、日本人の死生観について、死者が完全にこの世から切り離された存在ではないことに深い印象を受けたようです。
彼は次のような言葉を残しています。
“Here the dead are not wholly separated from the living.”
ここでは死者は、生きている者から完全に切り離された存在ではない。
この言葉を読むたびに、お盆の風景が自分の中に重なってきます。
仏壇に手を合わせる時間。
迎え火の煙が静かに立ちのぼる様子。
送り火で「また来年」と心の中でつぶやく瞬間。
これらは、死者と生者がひととき同じ時間を過ごしているような感覚にも思えます。
墓前で交わされる、言葉なき対話
お盆の時期にお墓参りをすると、同じように花を持った人とすれ違います。
言葉を交わすわけではありませんが、そこには共通の想いのようなものが流れているように感じます。
それぞれが、それぞれの大切な人を思いながら、静かに同じ場所に立っているような印象を受けます。
生と死が分かれすぎない日本
日本では、生と死がはっきりと断ち切られているというより、緩やかにつながっているようにも感じます。
仏壇に向かって日常的に声をかけること。
節目ごとに墓前に足を運ぶこと。
そうした積み重ねの中で、亡き人は「遠くへ行った存在」ではなく、「そばで見守ってくれている存在」として心の中に居続けるのかもしれません。
ハーンのまなざしと、今の自分
ハーンが見た日本の死生観は、今も大きく変わらず続いているように感じます。
自分が仏壇に手を合わせるとき、その背景には、ハーンが記した日本人の暮らしと心のあり方が、静かに重なっているようにも思えます。
死者を畏れる対象として遠ざけるのではなく、共に生きる存在として受けとめる。
その感覚は、今の自分の暮らしの中にも確かに息づいているように感じます。
次回予告
第4回「神在月の迎えと送り ― 神々の国に流れる“変わらない時間”」。
神在月に神々を迎え、そして送り出す出雲の風景と、ハーンが見た“神々の滞在する国”を重ねて綴っていきます。
書籍名:Glimpses of Unfamiliar Japan(1894, Lafcadio Hearn)
引用章:Chapter XIV “The Buddhist Cemeteries”
引用見出し:The Presence of the Dead in Daily Life
今日も佳き日に
コーチミツル
#ハーンシリーズ #お盆 #仏壇 #迎え火 #送り火 #死生観 #松江 #ラフカディオハーン