
「好き」という言葉は、とても使いやすい言葉です。
海が好き。人が好き。音楽が好き。
けれど最近、その「好き」は、どこまでを含んでいるのだろうか、
そんな問いが自分の中に生まれてきました。
たとえば海。
夕暮れの海が好き、という人は多いと思います。
確かに美しい。
でも、本当に海が好きな人は、
晴れの日だけでなく、雨の日も、風の強い日も、
朝も昼も夜も含めての「海が好き」なのではないでしょうか。
荒れていて近寄れない日もある。
思った以上に冷たく、怖さを感じる日もある。
それでも、「今日はこんな海だな」と受け取る。
そこまで含めて、好きと言っている気がします。
人に対しても、同じことを思います。
笑っているところが好き。
優しいところが好き。
もしそれだけを指しているのだとしたら、
それは「好きな一面」であって、
その人そのものと関係を結んでいるとは言えないのかもしれません。
泣いたり、怒ったり、迷ったり。
喜怒哀楽を行き来する姿を見て、
それでも「この人だ」と思えるかどうか。
そこに、「本当に好き」という感覚があるように思うのです。
自分は猫が好きです。Instagramで猫動画を見つけては勝手に共有するくらいです。(笑)
飼ってはいませんが、猫の在り方が好きなのです。
簡単には近寄ってこない。
気に入らなければ無視する。
かと思えば、ふいに体を摺り寄せてくる。
こちらの期待や都合どおりには、まず動かない。
でも、その「自分を持っている感じ」がいい。
コントロールできないところごと、受け入れている。
それが、自分にとっての「好き」なのだと思います。
そして、ラッパのことを考えると、
この感覚はさらに深くなります。
トランペットは、難しい楽器です。
いつも思うようには吹けません。
最初は、
「本番で思うように吹けるようになること」
それが目標でした。
それができるようになったら、
また次の段階を目指すのだろう、
そんなふうに考えていました。
けれど最近は、少し違います。
少しでもうまくできれば、
本番での自分への目標は、さらに高くなる。
「これでよかった」と思える基準が、
気づけば、また先へ動いている。
もしかすると、
「本番で思うように吹けた」と
心から言える日は、
一生来ないのかもしれない。
そんな気がしてきました。
出来るようになると思っていたけれど、
出来ないと思いながら、続けている。
それでも、やめようとは思わない。
本番が終わったあと、
うまくいかなくて、
楽器ケースをすぐに開けたくない日もあります。
少し距離を置きたくなることも、正直あります。
でも、それは嫌いになったからではありません。
トランペットは、その日の自分を、
良くも悪くも、そのまま音にしてしまう。
言い訳も、ごまかしもきかない。
だからこそ、
自分の素を突きつけられる。
もしかすると自分は、
トランペットに対して、
「うまくやろうとする自分」ではなく、
「取り繕わない自分」を、そのままぶつけているのかもしれません。
思い通りにならない。
未熟さが、はっきり見える。
目標に辿り着けるかどうかも、分からない。
それでも、関係を続けている。
それが、自分にとっての「好き」なのだと思います。
好きとは、
心地よさを集めることではなく、
コントロールできないものと、
それでも向き合い続ける姿勢のこと。
海も、人も、猫も、ラッパも。
思い通りにならないからこそ、
そこに向き合う自分の在り方が、
そのまま映し出される。
では、少し立ち止まって考えてみて、
あなたが、
心から「好きだ」と言えるものは何でしょうか。
それは、
うまくいっているときだけでなく、
思い通りにならないときも、
距離を置きたくなる瞬間も含めて、
それでも「好きだ」と言えるものでしょうか。
もし今、
条件が外れた瞬間に手放してしまうものがあるとしたら、
それは「好きな一面」だったのかもしれません。
そして、
うまくいかなくても、迷っても、
それでも関係を続けているものがあるとしたら、
そこには、あなたの大切にしている在り方が
静かに表れているのかもしれません。
今日は、少しだけ「詩のようなブログ」にしてみました。いかがでしょうか。(笑)
今日も佳き日に
コーチミツル
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