眞名井神社に残る稲荷の話
眞名井神社には、今もお稲荷さんが祀られています。
昔は、眞名井の滝のそばに祠があったものを、現在の場所に移されたと聞いています。
水の気配が近い場所に祠があったという話をうかがうと、自然の力と信仰とが、より強く結びついていた時代があったのかもしれないと感じます。
場所が移っても、祀られる存在そのものは、静かに受け継がれているように思えます。
地元の方から聞いた狐の話
先日の新嘗祭の直会の席で、地元の方から昭和の頃の話をうかがいました。
科学の発展した現代で迷信のように思いますが、当時は、夜になると本当に狐が出て、人を迷わせたり、油揚げを取っていったりしたそうです。
さらに、眞名井の滝の方向に、青白い狐火のような光を見たという話も、複数の方から語り継がれているそうです。
今では想像しにくい光景ですが、当時は外灯も少なく、夜の闇は今よりずっと深かったでしょうし、何らかの淡い光でさえそのように見えたのだろうと思います。

闇が深かった時代に見えたもの
今の夜は、街灯や家の灯りがあり、完全な闇を見ることはほとんどありません。
けれども、昭和の頃、さらにそれ以前の時代には、夜は本当に暗く、星や月の光だけが頼りだったのかもしれません。
そのような闇の中では、遠くに揺れる青白い光が、狐火のように見えたとしても不思議ではないようにも思えます。
人の感覚が、今よりも自然に近かった時代の話のようにも感じます。
ハーンが描いた日本の怪異
ハーンは、日本の怪談や不思議な話を多く書き残しています。
それらは、単なる怖い話というより、人の暮らしと自然、目に見えない世界とが、すぐそばでつながっていることを伝えているように感じられます。
狐や幽霊、怪異といった存在は、遠い別世界の話ではなく、日常の隣にひっそりと存在していたものとして描かれています。
今回うかがった狐火の話も、ハーンの物語の世界と、どこか静かに重なっているように思えます。
祠が移されても残る気配
眞名井の滝から祠が移されたことで、風景は変わったのかもしれません。
けれども、場所が変わったからといって、信仰や語り継がれる話までが消えるわけではないように感じます。
稲荷が今も祀られているという事実が、見えないものが途切れずに続いていることを、そっと教えてくれているようにも思えます。
怖さの奥にある、身近さ
狐火や迷わされたという話には、どこか怖さも含まれています。
それでも、完全に恐ろしい存在として語られているわけではなく、どこか身近な存在として語られているところに、日本の怪異の特徴があるようにも感じます。
排除する対象ではなく、共に生きる存在として捉えていた感覚が、そこには残っているのかもしれません。
ハーンのまなざしと、今の自分
ハーンが描いた怪談の世界は、今の暮らしの中では、現実感が薄れている部分もあるかもしれません。
それでも、宮司さんから聞いた話に耳を傾けていると、ハーンの物語が決して架空の世界だけで描かれたものではなかったのかもしれないと感じることがあります。
自分が今この土地に立ち、この話を聞いていること自体が、過去と現在が静かにつながっている証のようにも思えます。
次回予告
第7回「新嘗祭と献穀米 ― 実りに感謝する祈りのかたち」。
氏子の家で育った米が供えられる新嘗祭の風景と、祈りに込められる感謝の心を綴っていきます。
書籍名:Kwaidan / Glimpses of Unfamiliar Japan(Lafcadio Hearn)
関連章:怪談各篇および『Glimpses of Unfamiliar Japan』より
参照主題:Fox-Fires and Supernatural Lights
今日も佳き日に
コーチミツル
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