423.ご飯茶碗に番茶を注いだ朝(修行の本来の意味を考える)

今朝、食事の準備をしていて、
いつも使っているお茶用のマグカップ出し忘れていることに気づきました。

そのとき、
ふと食事の時の昔の親父の姿を思い出しました。

ご飯を食べ終えたあと、
そのままご飯茶碗に番茶を注いで飲んでいた姿。

そんなことをしていたなぁと想い出し、今日はそれを真似してやってみました。


無駄が一つ減るだけで、流れが整う

やってみると、
味が変わるわけでもなく、
ただ洗い物が一つ減り、
茶碗の中も自然ときれいになります。

新しいことをしたわけではなく、
余分な動作が一つ減っただけ

それだけで、
朝の流れが少し整った気がしました。


「食事も修行だった」という記憶

この感覚から、
以前テレビで観たある寺の修行の話を思い出しました。

食後に、
たくあんでご飯茶碗を拭き、
そのあと湯や番茶を注いで器を洗い、
それも飲み干す、という作法。

「食べること自体が修行だから」という話です。

どこの寺の話だったか曖昧だったので、
AIのはるさんに訊いてみました。


AIのはるさんに訊いた「食事の修行」

はるさんによると、
これは禅宗、特に曹洞宗(永平寺など)で行われている
応量器(おうりょうき)による食事の修行だそうです。

特徴はとてもシンプルで、

  • 器は最小限
  • 食べ残さない
  • 食後は自分で器をきれいにする
  • 無駄な動きをしない
  • 食事中は会話をしない

食べることから後始末までを、
一つの行為として完結させます。


食事の前後に唱える「偈(げ)」

もう一つ特徴的なのが、
食事の前後に唱える**偈(げ)**です。

偈とは、
行為の意味を思い出すための短い言葉。

「何のために食べるのか」
「この食事がどう届いたのか」を、
食べる前に一度立ち止まって確認します。

無意識で食べ始めないための、
意識を戻すスイッチのようなものです。


修行の本来の意味

ここで、
「修行」という言葉の本来の意味を考えてみます。

修行は、
修(おさめる)+ 行(おこなう)

我慢や苦しみが目的ではなく、
生き方を整えるために、日々の行いを調えていくことです。

つらさがあるとすれば、それは目的ではなく、
癖や無駄を手放す途中で生まれる違和感なのかもしれません。


そのまま家庭に持ち込まなくていい

とはいえ、
寺の修行をそのまま家庭に持ち込む必要はないと思います。

特に、
食事中に会話をしない、という点。

家庭の食卓は、
会話や気持ちを交わす大切な時間でもあります。

修行だから成立することと、
暮らしの中で大切にしたいことは、必ずしも同じではないと思います。


それでも、取り入れること

一方で、取り入れられるものもあります。

  • 無駄に器を増やさない(家ではワンプレートを基本にしています)
  • 食べ残さない
  • 食事と後始末を分断しない(できるだけ洗いやすい状態で食事を終える)

そしてもう一つ。

テレビは消してもいいかもしれない、ということ。

会話をやめるのではなく、
「ながら」をやめる。

それだけで、
食べることと、話すことが、その時その場に存在します。


修行は、整えるための工夫

今朝の、ご飯茶碗の番茶は、
修行とは何かを、静かに教えてくれました。

修行とは、
何かを足すことではなく、
無駄を減らし、
行いと目的を一致させていくこと。

会話は大切にする。
でも、テレビは消す。

それくらいが、
今の暮らしに合った修行なのかもしれません。


この言葉が、必要な人に、必要な時に、届きますように・・・
今日も佳き日に
コーチミツル

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