
はじめに
自分が暮らす地域には、家の前の道沿いに祠やお地蔵さまがいくつかあります。
この道は、昔から出雲國の国庁につながる国道だったと聞いており、人の往来と祈りが自然に重なってきた場所なのかもしれません。
ハーンは、日本の日常の中に息づく祈りに深く心を動かされたと書き残しています。
その視点を思い出しながら、自分の生活の中にある祈りについて考えてみたくなりました。
ハーンが感じた「生活に寄り添う祈り」
ハーンは、日本の祈りについてこう記しています。
“Everywhere I found little stone images smiling by the wayside.”
どこに行っても、道ばたに微笑む小さな石像を見つけた。
この一文には、特別な宗教儀式ではなく、生活の一部として祈りが寄り添っている日本への驚きが込められているように感じます。
祈りが日常の中に静かに溶け込んでいることを、ハーンはやさしいまなざしで書き留めています。
道ばたで手を合わせたくなる気持ち
朝ウォーキングをしていると、ふと祠に目がとまることがあります。
なにかお願いごとをするというより、ただ自然と手を合わせたい気持ちが生まれることがあります。
大きな意味を持たせるのではなく、その場の空気に軽く身をゆだねるような感覚に近いのかもしれません。
誰かに守られているような、見守っていただいているような気がすることもあります。
道ばたの祈りが持つ“やさしさ”
祠やお地蔵さまには、華美な装飾があるわけではありません。
けれども、そこに小さな花が添えられていたり、風雨から守るための屋根がかけられていたりします。
その様子を見ると、地域の誰かがそっと世話をしておられるのだろうと思います。
大げさではないけれど、日々を大切にしようとする心がにじんでいるように感じます。
この“やさしさ”こそ、ハーンが日本人の心に見つけたものの一つだったのではないかと思っています。
自分の歩く道にある祈り
自分が暮らす道沿いに祠や地蔵が残っていることは、当たり前のようでいて実は大切なことかもしれません。
そこを歩くたびに、ほんの少し心が整うような感覚があります。
忙しない日常の中で、立ち止まるほどではないのに、心だけはそっと立ち止まる時間をくれるように思います。
祈りが日常にあるということは、自分にとって安心感につながっているのかもしれません。
ハーンのまなざしと、今の自分
ハーンが明治の頃に感じた日本の祈りは、現代でも同じように大切に残されています。
祠に手を合わせるとき、ハーンの文章に登場する“道ばたで微笑む石像”が自分の目の前の風景と重なることがあります。
時代が変わっても、祈りの形は大きく変わらないのだと感じる瞬間です。
次回予告
第3回「祖先とともに生きる ― 盆の風景とハーンの“死者観”」
お盆の迎え火や送り火、仏壇に手を合わせる時間。
亡き人を思い出すときの気持ちと、ハーンが描いた“死者がそばにいる日本”を重ねて綴っていきます。
英語引用の出所
書籍名:Glimpses of Unfamiliar Japan(1894, Lafcadio Hearn)
引用章:Chapter IV “In the Cave of the Children’s Ghosts”
引用見出し:Stone Images and Wayside Deities
今日も佳き日に
コーチミツル
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