父が亡くなって、4年。
温厚で、いつも笑顔で、「ありがとう」が口癖だった父の“もう一つの顔”が、思いがけない出来事をきっかけに現れました。
飾り床の裏から出てきたのは、17歳の父が学びきった証し――一枚の賞状でした。
2026年1月6日の地震
2026年1月6日の午前、島根県を震源とする地震がありました。
強い揺れではありましたが、幸い家に大きな被害はなく、見える範囲では墓の灯ろうが倒れた程度でした。
日常は、ほぼそのまま続いていきました。
けれど、その揺れが、静かに眠っていたものを表に出すことになりました。
飾り床の裏から現れたもの
地震後家の中や外を見て回ったところ、飾り床に置いてあった能の謡(うたい)の師範免状がずれているのに気づき、
元に戻そうと手に取ったときです。
その裏に、
一枚の賞状が、そっと隠れるように置かれていました。
昭和25(1950)年3月23日付。
島根県立松江中学校の校長名で、
品行方正
学業優秀につき
優良生として特にこれを表彰する
と記されていました。
それは、自分の父が若き日に受け取った賞状でした。
「第五学年」という言葉の意味
賞状には「第五学年」とあります。
当時の松江中学校は5年制で、この第五学年は最終学年、つまり卒業学年にあたります。
年齢で言えば、17〜18歳。
進路や人生の方向を、現実として考えざるを得ない時期です。
この賞状は、
父がその年齢で、学業だけでなく生活態度も含めて、
学年を代表する生徒の一人として認められた証でした。
松江中学校と英語の学び
NHKの連続ドラマ『ばけばけ』には、松江中学校で学ぶ学生たちの姿が描かれています。
ラフカディオ・ハーンと英語でやり取りする場面を見て、
自分は、ドラマの中の学生たちを父の若いころの姿として見ていることに気づきました。
それは、祖母から、父は英語を一生懸命勉強していたと聞いたことがあるからです。
・英語の教科書を音読する声が、帰宅時に家の外まで聞こえていたこと
・戦後、進駐軍(米兵)に自分から話しかけ、英語が通じたことを喜んでいたこと
こうした話は、後になって、
父の後輩だという方からも聞きました。
父は多くを語る人ではありませんでしたが、
学ぶことを、静かに大切にしていた人だったのだと思います。

家族の事情と、選ばれた進路
父は、その父(自分の祖父)を戦争で早くに亡くしています。
祖母と妹との三人暮らし。
家は農家で、祖母は一家の長として家を守る立場でした。
当時、松江中学校を卒業した学生の多くは、
大学進学や教職、企業への就職を目指していた時代です。
それでも父は、恐らく入学時から家を継ぐ道を選んでいたのだと思います。
だからこそ、
松江中学校で学び、
寝る間も惜しんで努力し、
卒業のときに表彰されるところまでやり切ること。
それが、父にとっての
一つの目標であり、ゴールだったのではないか――
そう思うと、自然と目頭が熱くなりました。
控えめな「父らしい自慢」
父は、温厚で、いつも笑顔。
「ありがとう」が口癖の人でした。
自分のことを誇るような話をすることは、ほとんどありません。
けれど、その賞状は、
能の免状の裏側に、そっと置かれていました。
見えるところには出さず、
語らず、
それでも大切に残していた一枚。
これは、父なりの控えめな自慢だったのだな。
そう思うと、その奥ゆかしさが、いかにも父らしく感じられました。
自分の人生と、父の背中
正直に言えば、
自分は勉強が好きな子どもではありませんでした。
できるだけ楽な方へと流れてきたと思います。
けれど、高校進学のとき、
父が一度だけ、こんなことを言ったのを覚えています。
「お前は、学校の先生に向いていると思うけどな」
そのときは深く考えませんでした。
けれど今、
ブログを書き、
人の話を聴き、
コーチングをし、
学び続けている自分がいます。
もしかすると、
父が17歳で学びきった姿勢や、学ぶことへの誠実さが、
形を変えて、自分の中にも受け継がれているのかもしれません。
一枚の賞状が教えてくれたこと
地震がなければ、
この賞状を見ることはなかったかもしれません。
けれど、今の自分だからこそ、
この一枚の重みを、受け取れた気がしています。
父の青春。
父の努力。
父が語らなかった誇り。
それらが、
静かに、確かに、
今の自分につながっている。
そう思えること自体が、
この賞状が、今、姿を現した理由なのかもしれません。
今日も佳き日に
コーチミツル
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