今日は庭の芝生を刈りました…というのも松の下に自力で芝生を植えていたのですが、その見た目はほとんど“雑草”。
どこからが芝で、どこからが雑草なのかよく分からないくらい、自然に任せればどんどん伸びて、ぼさぼさになります。

でも、そんな芝生が、サッカー場、ラグビー場、公園などでは当たり前のように使われている。
「なぜ芝生なのか?」
今日はそんな疑問をきっかけに、芝生の歴史と意味を辿ってみようと思います。
ヨーロッパ貴族の象徴から、私たちの足元へ
芝生の起源をたどると、中世ヨーロッパの貴族の庭園に行き着くようです。
草を低く刈り揃えた庭は、敵の侵入を見張るための実用的な役割を持っていましたが、同時に「自分にはそれを維持するだけの力(人手と資金)がある」と誇示する、ステータスの象徴でもありました。確かに、自分は、松の周りだけですが広大な敷地に芝生を植えるとそれだけでメンテナンスに時間と労力がかかります。
18〜19世紀には、イギリスで“芝生文化”が発展。
ロンドンのハイド・パークのように、誰もが歩ける芝生が公共空間に広がっていきました。
やがてアメリカにも広まり、「郊外の一戸建て+芝生の庭」は典型的な“成功のイメージ”に。自分たちが子供の頃に観た奥様は魔女の生活にも芝生が青々としていた記憶があり、憧れでした。
芝生は世界中に広がり、今では私たちの身近な存在になっています。
走れる、転べる、集まれる
サッカー、ラグビー、ゴルフ、野球…多くのスポーツで芝生が使われています。
その理由は、クッション性があり、転倒してもケガをしにくく、またボールの動きが予測しやすいためです。
さらに、公園や広場に芝生があるのは、見た目のためだけではありません。
人が集まり、座ったり寝転がったり、子どもたちが自由に遊んだりできる「共有の場」として機能しているのです。
昔は「芝生立入禁止」という看板も多くありましたが、最近では「寝転んでOK」「裸足でどうぞ」といったスタンスの場所も増えています。
雑草と芝生、その境界線は?
刈っているとき、ふと思いました。
「芝生と雑草って、何が違うんだろう?」
答えは意外とシンプルかもしれません。
それは、“人の手が入っているかどうか”。
放っておけば、芝生は雑草に負ける。
けれど、人が定期的に刈ることで「整えられた自然」としての姿を保ちます。

なので、芝生は「人と自然との共同作品」なんですね。
最近では「ローメンテナンス芝生」や「在来種の草花を活かす庭づくり」など、自然に近い形を大切にする流れもあります。
芝生一つ取っても、時代とともにその“整え方”が変わってきているのです。
自然が好きな自分の本音
今では人工芝も広く使われるようになりました。
特に学校や屋上グラウンドなど、維持管理が難しい場所では便利ですし、年中きれいな状態が保てるというメリットもあります。
でも自分は、やっぱり自然芝が好きです。
季節とともに変化し、裸足で歩けばひんやりとした感触。
草のにおいがして、風が吹けば揺れる。
虫もやってくるし、ちょっと面倒な雑草も一緒に生えてくる。
それも含めて、自然との関係を感じられるのが、自然芝の良さだと思うのです。
「手がかかるからこそ、愛着が湧く」
これは、畑仕事や筋トレにも共通することかもしれません。

今日も佳き日に
コーチミツル