152.優しさは、ときに人をダメにする? (甘さとの境界線を見つめて)

優しさって、なんだろう?

自分はこんな話を聞いたことがあります。

道で財布を落とした人がいたとして──

「財布、落としましたよ」と声をかけてあげるのが“普通の人”。(安心安全の日本だからこその普通の人なんですけれども)

拾って本人に手渡すのが“優しい人”

そして、落とした本人に気づかれず、そっとポケットに戻してあげるのが“本当に優しい人”……と。

少し笑ってしまうようなお話ですが、どこか心に残るものでした。

それはきっと、「優しさって、いったい何なのだろう?」という問いを投げかけてくれたからかもしれません。

優しさと甘さ、その違いは?

自分自身、時折「優しいね」と言っていただくことがあります。(家族に言われたことはありませんが…苦笑)

ただ、そんな時、自分はふと考えてしまいます。

その優しいというのが「思いやり」なのか、それともただ「人に合わせてしまっているだけ」なのか。

また、相手の望みを叶えることが、かえってその人の成長を妨げてしまうこともあるのでは……と。

以前、こんなブログも書きました。

👉 「“甘える”と“甘やかす”の違いって?本当の優しさを見つめ直す」

ここでも触れたように、「甘える」ことと「甘やかす」ことの違いを考えると、優しさにもやはり“境界線”があるように思うのです。

優しさの境界線とは?

自分の気持ちを置き去りにしていないか

人の気持ちを大切にすることはとても素敵なことです。

でも、自分の気持ちを抑え込んでまで相手に合わせ続けていると、それはどこかで苦しくなってしまうかもしれません。

自分らしさを残したまま、相手に寄り添えること。

それがひとつの“優しさの境界線”ではないでしょうか。

相手を依存させていないか

何でも手を貸してあげたくなることもあります。

けれど、それが“やってもらうのが当たり前”という依存につながってしまうと、

本当の意味でその人の力にはならないのかもしれません。

信じて見守ること。あえて手を引くこと。

それもまた、形を変えた優しさかもしれません。

感謝が育まれているか

優しさは、受け取った人の中に「ありがたいな」という気持ちが生まれたとき、

そのやりとりが温かいものとして残るように思います。

でももし、感謝が湧かない関係になっていたら、

そこには優しさが別のものに変わってしまっている可能性もあるかもしれません。

優しさは、時に“厳しさ”の中にもある

優しい人というと、穏やかな表情や柔らかな言葉が思い浮かぶかもしれません。

でも、相手の未来や可能性を信じるがゆえに、

ときに厳しく接することも、深い優しさのひとつだと感じています。

一見冷たく見える選択が、

長い目で見てその人を支えている──

そんな優しさの在り方も、確かにあるのではないでしょうか。

本当の優しさとは、何かを我慢することではなく

優しさとは、「形」や「振る舞い」ではなく、

その奥にある「想い」のような気がしています。

相手のためを思いながら、自分も大切にすること。

必要なときには支え、必要なときにはそっと引くこと。

そうした柔らかなバランスの中に、

本当の優しさがあるのかもしれませんね。

今日も佳き日に

コーチミツル

参考文献

  • Cloud, H., & Townsend, J. (1992). Boundaries: When to Say Yes, How to Say No
     → 健康な人間関係を築くためには「適切な境界線(バウンダリー)」が欠かせないとし、過度な犠牲が関係性を損なうリスクについても論じています。
  • Neff, K. D. (2003). Self-Compassion: An Alternative Conceptualization of a Healthy Attitude Toward Oneself
     → 自分に対する優しさ(セルフ・コンパッション)が、健全な対人関係や思いやりの土台になるとされています。

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