116.心のブレーキがかかっていませんか?

今夜、「カギダンススタジアム2025」という番組を観ていて、

何度も目頭が熱くなりました。芸能人と高校生たちが、厳しい練習を乗り越えて、優勝という目標に向かって全力で踊る姿。そのまっすぐさに胸を打たれたのですが、それ以上に、なぜこんなにも心が揺さぶられるのかについて自分なりに考えてみました。

その答えの一つに、「心のブレーキ」がある気がしたのです。

自分を見ている“もう一人の自分”


私はこれまで、何かに夢中になろうとすると、どこかで「待てよ」と冷静になる自分がいました。
部活でも、音楽でも、友人たちが盛り上がっている場でも、なぜかどこかでブレーキがかかるような感覚。

体育祭の熱狂の渦の中でも、「なんであんなに盛り上がれるんだろう」と冷めた目で見てしまう。
飲み会でも、みんながはしゃいでいる中、どこか一歩引いている自分がいる。

それは、“人の目が気になる”とか、“調子に乗りたくない”というブレーキだったのかもしれません。

唯一、心が弾けた日


でも、そんな自分が唯一、心から“振り切れた”瞬間があります。

それは、B’zのLIVEが地元・松江に来たときのこと。最前列で、松本さんからピックを手渡ししてもらった。
その瞬間の私は、周りの目も、自分の姿も気にならず、ただただ音楽と空間に没頭していました。

今振り返ると、あれは心理学でいう「フロー状態」だったんだと思います。
何もかもを忘れて、今この瞬間に完全に入り込んでいた。

フロー状態と“意味”


心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー理論」には、フローに入るための条件がいくつかあります。

・活動の難易度と自分のスキルが釣り合っている

・明確な目標やフィードバックがある

・周囲の評価を一時的に忘れられる環境がある

・そして何より、その活動自体が“意味のあること”だと感じられること

この「意味のあることだと感じられるかどうか」が、私には特に大きい気がします。

たとえば体育祭では、私にとってはそこまで「意味」が見出せませんでした。
ただ盛り上がること自体に乗れなかった。大義名分がないというか、「なぜ自分がこの場で全力を出すのか」が腑に落ちていなかったのです。

でもB’zのライブでは違いました、ホールでのライブ最前列。
大好きで憧れている存在がまっすぐに目の前で全力で表現してくれている。
そこで声を出し、飛び跳ねて楽しむことが「正解」で、「意味のあること」だった。
だから私は自然と夢中になれたんだと思います。

でも・・・心のブレーキは、本当に悪者?


ここまで書いてきて気づいたのですが、じゃあ「心のブレーキ」は悪いものなのかというと、そうとも言い切れない気がします。

心のブレーキは、本来“自分を守るため”にあるのだと思います。

勢いのままに行動して人を傷つけたり、流されて後悔するようなことを避けるために。
怒りや不安が爆発しそうなときに、一歩引いて自分を制御するために。

それは、「理性」とも言えるし、「自己コントロール力」とも言えます。

大切なのは「ブレーキを踏む理由」
問題なのは、そのブレーキが自分の意志で踏んでいるものかどうかです。

本当に必要だから踏んでいるのか

それとも、人の目が気になる」「失敗したくないという恐れから、無意識に踏んでしまっているのか

この違いは大きい・・・。

前者は自分を守るための“適切な判断”。
でも後者は、もしかしたら“自分の可能性を押しとどめてしまっている”かもしれない。

これからは、「意味」と「選択」を大切にしたい


これから先、何かに挑戦したり、夢中になりたいと思う場面があったら──

まずは「これは自分にとってどんな意味があるのか?」と問いかけてみたい。
そして、その上でブレーキを踏むのか、アクセルを踏むのかを自分で選べるようになりたい。

カギダンススタジアムで踊る人たちの姿に、自分の心の奥で小さなヒビが入った気がします。
そのヒビが少しずつ広がって、やがてブレーキの外れた瞬間に繋がっていく。
そんな未来を、ちょっと楽しみにしています。

今日も佳き日に

コーチミツル

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