402.戒名に刻まれた、ふたりの時間(250年の年月を超えて)

少し前に、
「399.知らないご先祖の法要を、なぜ今も行うのか(母の一周忌を迎えて、あらためて考えたこと)」
というブログを書きました。

あのときは、
知らないご先祖の法要が、
なぜ今も続いているのかを考えていました。

亡くなった人のため。
残された人のため。
きっと、そのどちらでもあり、
どちらだけでもない。

その続きを考えるようにして、
過去帳を、もう一度、静かに開いてみました。


来年の法事予定に並ぶ二つの名前

秋林自性信女
安永七年八月 (旧暦の八月は今の暦でいうと九月ごろ)「自分らしさを大切にし、静かに日々を重ねた女性」
という印象の戒名

紅林蹊葉信士
安永七年九月 (旧暦の九月は今の暦でいうと十月ごろ)「歩んできた人生そのものを大切にされた男性」
という印象の戒名

同じ年、
季節がひとつ進むかどうかの頃。

先に妻が亡くなり、
そのあとを追うように、
夫が旅立っています。

この二つの名前を並べて見ていると、
そこに、大きな出来事や、
強い言葉は感じられません。

ただ、
柔らかな時間の流れだけが、
静かに残っています。


戒名という、仏教の名前

戒名は、
亡くなったあとにつけられる
仏教の名前です。

そして同時に、
その人の生き方や、
在り方を映した名前でもあります。

ここに使われている言葉も、
何かを誇るためというより、
その人そのものを、そっと包むような言葉に見えます。


「秋山」と「林」という字

自分の苗字は「秋山」です。この地域には2軒くらいしかありません。

ただ250年前のご先祖さんの戒名には、
「山」ではなく、
「林」という字が使われています。

一本で立つ木ではなく、
いくつもの木が寄り添う林。

夫婦で生きた時間や、
家として重なってきた暮らしが、
この字に込められているような気がしました。


先に旅立った人を想う

ふと、
こんなことを思いました。

先に妻を亡くして、
きっと、寂しかったんだろうな。

今よりも、
夫婦が生活の中心だった時代。

長い時間を共に過ごした相手がいなくなったあとの日々は、
想像以上に、静かだったのかもしれません。

その静けさの中で、
しばらく時を過ごし、
そして、あとを追うように旅立った。

そんな姿が、
自然と浮かんできます。


若いころと、今とで変わった見え方

若いころの自分は、
「続けて亡くなる」ということを、
どこか良くないことのように感じていました。

不幸が重なった、
そんなふうに捉えていたのだと思います。

でも今は、
少し違って見えます。


そこは、よっぽど、いいところなのかもしれない

よっぽど、
あの世というのは、
いいところなのかもしれない。

先に行った人がいて、
あとから来る人を迎える。

言葉はなくても、
通じるものが、
きっと、あったのではないか。

そんなふうに思えるようになりました。


この文章は、
多くの人に読まれなくてもいいのだと考えています。

いつか、
自分がいなくなったあとに、
家族の誰かが、
ふと目にしてくれたら。

「ああ、こんなふうに感じていたんだな」
そう思ってもらえたら、
それで十分です。


戒名を見るということ

戒名を見るということは、
亡くなった人を遠ざけることではなく、
今を生きる自分が、
静かに立ち止まることなのかもしれません。


250年後の誰かが、自分の名前を見たとき。

その人は、どんな情景を思い浮かべるでしょうか。

だけど、その戒名、自分が知ることはないかなあ…。(笑)


この言葉が、必要な人に、必要な時に、届きますように・・・
今日も佳き日に
コーチミツル

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