泥中の蓮(でいちゅうのはす)って聞かれたことありますか?
私は、何回か聴いたことがありますが、意味としては、蓮の花は泥の中で咲くことから、煩悩や俗世の汚れの中にあってもそれに染まらず、清らかに身を保っている人をたとえて「泥中の蓮(でいちゅうのはす)」といわれています。

得意のAIに訊いたところ
【意味は】
- 煩悩や俗世の汚れの中にあっても、これに染まらず清らかで美しい
- 清廉でいさぎのよい人物のたとえ
- 世の中の汚濁に染まらないで清く生きている人をたとえていう
【由来は】
- 「維摩経(ゆいまきょう)」にある「身は泥中の蓮華」に由来しています
- 仏教では、私たちが「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える姿を、泥の中から白い蓮の華が咲く様子に例えています
【蓮の花の特徴は】
- 蓮は泥水の中に生きて、泥水を吸って清らかで可憐な花を咲かせます
- 蓮は環境の良い高原陸地には咲きません
- 泥の中で育ちます
- 不浄な泥の中で逞しく茎を伸ばし、水面に出ると泥に染まることのないとても大きく美しい花を咲かせます
ということで、蓮の花の話は仏教では有名なお話しかと思います。
振り返って、自分みたいに俗世間にどっぷり漬かっているものとして考えると、
不浄な泥の中で逞しく茎を伸ばし、水面に出ると泥に染まることのないとても大きく美しい花を咲かせるというような清らかな行いは自分はできないのではないかと思いますし、これまでも、泥の中で溺れたり溺れそうになったりしたことが何回もあるように思います。(苦笑)
この話は、蓮の花の生き方を人の生き方に伝えるための例えとして素晴らしい話だと思いますが、一方で、自分なりの解釈として蓮が泥の中で花を咲かせることの意味について考えてみました。
蓮はご存じのように、植物であり、池や提で育っています。泥水の中というのは不浄なものの例えとしてこの話の中で伝えられています。
では、蓮にとって本当にそれは不浄なものでしょうか?
植物が育ち花を咲かせ実をつけるためには、水、光、二酸化炭素、栄養などが必要であり、実はその中の”栄養”として蓮にとって大切なものが泥の中にあるから元気に美しい花を咲かせることができるのだと感じています。確かに他人から見たら汚れた不浄の泥水になるかもしれませんが、蓮にとっては、人が温泉に漬かってため息を出すくらいの素晴らしい環境だから、しっかりと逞しく茎を伸ばし、水面に出ると泥に染まることのないとても大きく美しい花を咲かせるのではないかとも思うのです。
なので、自分が人間的には不浄な場所にいて、己を忘れずに自分本来の花を咲かせるという高貴な行ないは私はとてもできるような器ではありませんし、これまでも、どちらかというと常々周りに流されていたように思っています。
ですが、もし、そんな流されやすい私でも言えるとしたら、”一般的には不浄な場所であっても、自分の成長のために栄養になるようなものを見つけ、その中から養分を取り出してそれを自己成長のために使う”というような、己の目的に合うような環境であれば、そこで小さな花になるかもしれませんが咲かせることができるかもしれないかなと思います。
今ある環境に対して愚痴を言うのは簡単ですし、
諦めることもできると思いますが、そんな中でも、自分に栄養になることを探して、もし、その栄養がそこにあるなら、そこにとどまって花を咲かせる夢を持ち続けて行動するのもよいかもしれませんね。
もちろん、全く自分の栄養にならないような理不尽な論外の環境であれば、タンポポの種のように風に乗って別の場所に行って根を張り茎をのばし、そして花を咲かせた方が自分のためになると思います。

今日も佳き日に
コーチミツル