
ドクダミは「抜くもの」だった
家のまわりの日陰のところに、ドクダミがたくさん生えています。
独特のにおいがあり、地下茎で広がるため、気がつけばあちこちに顔を出します。
どちらかというと周りでも厄介者、最近の自分にとっても、庭木の下に生い茂る
ドクダミ=雑草
でした。
見つけたら抜く。
広がらないように抜く。
畑や庭の邪魔にならないように抜く。
そんな存在として見ていました。
ふと思い出した記憶
でもあるとき、
子どもの頃の記憶がよみがえりました。
祖母が、
ドクダミを焼いて自分の膝裏の患部に貼ってくれた記憶です。
なぜ膿がたまっていたのか
子どもの頃の自分は、
かなり偏食だったように思います。
ご飯にしょうゆをかけて食べる。
それで済ませていたことも幾度もありました。
食べ物に対する執着がなかったように思います。
そのせいかどうかは分かりませんが、
皮膚が弱く膝の裏などにかぶれができ、
膿がたまっていたことがありました。
当時は病院にもいきませんでしたので
原因ははっきり分かりません。
湿疹だったのか、
汗や掻き壊しだったのか、
栄養の偏りだったのか。
祖母の手当て
その時、
祖母がしてくれたのが、
ドクダミを焼いて患部に貼る
という手当てでした。
膿を出すためだったのだと思います。
今の医療の視点で言えば、
衛生面の注意が必要なのですが、
でも、
身近な自然で孫を何とかしてやろうとする想い
がそこにあったのだと思います。
その記憶は、
今でも心に残っています。
雑草ではなかった存在
ドクダミは、
昔から「十薬」とも呼ばれ、
民間療法やお茶として使われてきました。
子どもの頃の自分には、
そんな意識はありませんでしたが、
祖母にとっては、ヨモギなどと共に
ただの草ではなかった
のだと思います。
困ったときに使えるもの。
暮らしの中の知恵。
自然からの手助け。
見え方が変わっていた
それがいつの間にか、
自分の中では、
抜くべき雑草
になっていました。
この変化に、
少し考えさせられました。
自然栽培の中での気づき
今、自分は自然栽培に取り組んでいます。
そこで向き合うのが、
雑草との関係
です。
雑草は敵なのか。
抜くべきものなのか。
それとも役割があるのか。
もちろん、
野菜の成長を妨げるほどであれば、
管理は必要です。
ドクダミの別の見方
調べてみると、
ドクダミには、
虫よけとして使われることもあるようです。
例えば、
- 乾燥させて畑の周りに敷く
- 煮出して薄めて使う
もちろん、
すぐに効果が出るとは限りません。
だからこそ、
試してみる
それが自然栽培の面白さでもあります。
Well-Comismという視点
ここでつながってくるのが、
Well-Comism(受け止め方)
です。
すべてを受け入れるという考え方。
ただし、
放置することではありません。
まず気づく。
一度見てみる。
関係を考えてみる。
ドクダミも同じです。
庭木の横にある時は邪魔な存在であることは事実。
でも、
それだけで終わらせない
「役割はないか?」
「使い道はないか?」
「昔はどうしていたのか?」
その視点を持つこと。
それが自分にとっての
Well-Comismです。
子どもの頃と今をつなぐ草
子どもの頃は、
自分を助けてくれる草。
大人になってからは、
邪魔な草。
そして今は、
見直したい草
同じドクダミでも、
見え方が変わっています。
戻るという感覚
自然の中には、
すぐに意味が分からないものがあります。
でも、
時間が経ってから、
意味が見えてくることがあります。
ドクダミも、
自分にとっては、
その一つなのかもしれません
これからの付き合い方
これからは、
見つけたらすべて抜くのではなく、
少し試してみる
乾かして使ってみる。
様子を観察してみる。
変化を感じてみる。
自然栽培は、
すぐに答えが出るものではありません。
だからこそ、
見て、感じて、考える。
そこに学びがあります。
まとめ
ドクダミは、
雑草でありながら、
暮らしの知恵にもなる存在
その両方を持っている草です。
子どもの頃の記憶と、
今の暮らしをつないでくれる存在。
身近にあるものほど、
見えなくなっている役割があるのかもしれません。
あなたの身のまわりにも、
「ただの邪魔者」だと思っていたものが、
見方を変えることで、
違って見えるものはありませんか?
この言葉が、必要な人に、必要な時に、届きますように・・・
今日も佳き日に
コーチミツル
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