※神さまと言う言葉が気になる方もおられると思われますので、親しみを込めてこのブログでは神さんと表現しております。
小説に耳を傾ける時間から
オーディブルを聴き始めて、もう4〜5カ月。気がつけば20冊以上の物語と出会ってきました。
最近は『准教授・高槻彰良の推察』シリーズに夢中で、ある日、車での遠出の際に何気なく再生していたところ、家族まで物語に惹き込まれてしまい、今では一緒に聴くのが楽しみの一つとなっています。
これまで小説にはあまり縁がなかった自分が、物語に心を動かされるようになるとは思ってもいませんでした。
物語に出てきた「神さんとしての存在」
今聴いている巻には、事故から奇跡的に助かった子どもが“神さん”のように扱われるというエピソードが登場します(※まだ聴き終えていないため、結末はこれからのお楽しみです)。
その描写を耳にしているうちに、ふと20代の頃のある記憶がよみがえってきました。
ディヴィッドさんの問い ―「なぜ日本人は宗教を使い分けるの?」
20代前半の当時、職場の英会話サークルに参加していた自分は、イギリスから来た講師ディヴィッドさんと出会いました。
彼は宗教学を学んでおられ、日本の宗教観についてこう問いかけられたのです。
「なんで日本人は一つの宗教にこだわらないんですか?
お正月には神社で初詣、葬式はお寺で、結婚式は教会で…。ハロウィンもクリスマスも楽しむのはどうして?」
その時、自分は答えに詰まり、はっきりしていない文化に何となくばつが悪いような気持ちになったことを覚えています。

今なら、こう答えられる気がする
月日が流れ、今なら少しずつ言葉にできそうです。
日本には「八百万(やおよろず)の神」という考えがあります。
山や川、木や石、家の中の道具にさえ神さんが宿るという、自然と共に生きる暮らしの中で育まれた価値観。
だからこそ、さまざまな宗教的行事や文化も、堅苦しく捉えずに自然と受け入れているのだと思います。
「神さんはひとつではなく、そこかしこにいる」
神道と仏教。日本では長い歴史の中でこの二つが共存してきました。
神仏習合という柔軟なあり方が、神社の中に仏像があったり、お寺に鳥居があったりするような、特別ではない日常を形づくっています。
形式や教義よりも、「祈る気持ち」「敬うこころ」が何より大切にされてきた。それが日本の宗教観の特徴なのかもしれません。
親父の背中に宿っていた祈り
そんな話を思いめぐらせていたとき、もうひとつ浮かんできたのが、亡くなった親父の姿でした。
親父は、いつも暗いうちから畑に出て、農作業をしていました。
そして、朝陽が昇るころ、手を止めて空を見上げ、静かに手を合わせて拝んでいたのです。
誰に教えられたわけでもなく、言葉にもしなかったけれど、そこには確かに「神さんはここにおられる」という想いがあったように感じます。
日々の暮らしの中で自然に手を合わせる。
それは、何かにすがるのではなく、「今ここに生かされていること」への感謝の現れだったのかもしれません。

伊勢神宮で気づいた「感謝のかたち」
自分が昨年初めて伊勢神宮を訪れたときのことも忘れられません。
内宮では「願いごと」ではなく「感謝」を伝えるという習わしに触れ、神さんとの向き合い方が変わったように思いました。
「ありがとう」と伝える祈りは、誰の心にも宿るもの。
その姿は、朝の畑で手を合わせていた親父の背中とも重なって見えるのです。
「信じる」よりも、「敬う」
宗教というと、「何を信じているか」が問われることがあります。
でも日本では、「敬う」や「感謝する」という感覚の方が、ずっと根づいているのではないかと思います。
大切なのは、形ではなく気持ち。
そうして暮らしの中で自然と祈る姿勢が、日本人の中には流れているのではないでしょうか。
あの時の問いに、今なら
若い頃、答えられなかったディヴィッドさんの問い。
でも、その問いかけがあったからこそ、今の自分の中でゆっくりと育ってきた答えがあります。
物語や記憶、親父の姿を通してたどり着いた気づき。
それは、「神さんは、どこにでもおられる」という、日々のなかの小さな祈りの積み重ねでした。
今日も佳き日に
コーチミツル