
何気ない日常の中で、ふと思ったこと
最近、ふとしたときに考えたことがあります。
「ありがたい」と「当たり前」って、もしかすると反対の意味なのではないか、と。
たとえば、朝起きてごはんを食べられること。
家族が元気に帰ってくること。
職場で「お疲れさま」と声をかけられること。
どれも普段は“当たり前”に過ぎていくことですが、改めて見直すと、それらは本当は「ありがたい」ことの連続なのではないかと思うのです。
「ありがたい」の語源は「有り難い」こと
「ありがたい」という言葉は、もともと「有り難い」と書きます。
「有ることが難しい」と書いて、「めったにない」「貴重なこと」という意味になります。
仏教の教えの中にも「人として生まれること」や「仏法に出会えること」は、この上なく稀なこととされ、それを「有り難い」と表現しています。
今こうして生きて、誰かと関わり、言葉を交わしている――
そんな日常そのものが、実はとても尊いことなんだと気づかされます。
「当たり前」とは“そこにあるのが当然”という感覚
一方、「当たり前」という言葉は、私たちの日常にすっかり馴染んでいます。
語源にはいくつか説がありますが、「一人前の取り分=取り前」に由来し、「当然受け取ってよいもの」という意味から来ているとも言われています。
それが次第に、「そうであって当然」「不思議ではない」という意味に変わり、私たちはつい、目の前の出来事を“あって当たり前”としてしまうのです。
でも、当たり前のように存在するその出来事が、明日も必ずあるとは限らないのですよね。
「ありがとう」を言うことで、心が整う
自分は、家でも職場でも、そしてコンビニや飲食店でも、できるだけ「ありがとう」と伝えるようにしています。
特別な理由があるわけではありませんが、その一言で、お互いが少しやさしい気持ちになれたらいいなと思っているからです。
「ありがとうございます」と言葉にすると、相手の表情がやわらぎ、自分自身の気持ちも少し落ち着きます。
それはまるで、自分の中にある「当たり前」が、「ありがたい」に変わる瞬間のような気がします。
小欲知足(しょうよくちそく)という生き方
仏教の教えに「小欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。
小欲 ― 欲を少なくし
知足 ― 足るを知る
もっと、もっとと望むより、今あるものに目を向け、「もうこれで十分だ」と心から思えること。
それができたとき、人は自然と感謝の気持ちを持つことができるのだと思います。
「足りない」ことを嘆くよりも、「ある」ことに目を向ける――
その姿勢こそが、当たり前の中に「ありがたさ」を見つける鍵になるのかもしれません。

当たり前は、ありがたいの入り口かもしれない
「ありがたい」と「当たり前」は、語源的に明確な反意語ではないかもしれません。
でも、感覚や心の持ち方としては、まるで正反対の場所にあるように感じます。
日常の中にある“当たり前”を、ひとつひとつ「ありがたい」と感じること。
そして、その気持ちを「ありがとう」という言葉にして、ちゃんと伝えること。
それを繰り返すだけで、日々の景色が少しだけ優しく、あたたかく見えてくるのです。
小欲知足の心を大切にしながら、「ありがたい」と感じる日々を、これからも丁寧に重ねていきたいと思います。
今日も佳き日に
コーチミツル
#ありがたい #当たり前 #小欲知足 #足るを知る #感謝の気持ち #ありがとうの力 #丁寧な暮らし #仏教の教え #言葉の意味 #日常に感謝